私の人生と音楽

第11回「指揮デビュー演奏会」             佐藤  迪

 

 1994年春、それまで色々な形で私の音楽活動を応援して下さっていた「板橋正博」さんから「そろそろ正式に指揮者としての活動を本格化されたら如何ですか?」と声を掛けていただき、「全面的に支援します」と励ましの言葉を頂きました。私自身も指揮者としての音楽活動に大変魅力を感じて来ていた時期でも有りました。音楽業界の中で打楽器奏者としては実績を含め一目置かれる存在ではありましたが、指揮者としては「東京プロムナード・オーケストラ」(TPO)の仕事で私の指揮で演奏した事が有る人以外は「打楽器の佐藤が最近棒も振ってるらしいよ?」程度の認識で殆ど無名に近い状態でした。いずれは指揮者として認めてもらえる様な演奏会をしなければという思いも持っていましたので板橋さんのご好意を喜んで受ける決心をしました。指揮リサイタルを開催する事が決定しました。

 

 先ずはどの様な演奏会にするかが検討されました。当時既存のプロオーケストラの出演料は1公演350万円位が相場でしたので、編成によって予算を縮小出来るという事もあり私が主宰する「東京プロムナード・オーケストラ」の演奏で開催する事が決まりました。次に予算の事も考え、比較的小さい編成でも演奏できるモーツァルトの交響曲を中心にプログラムを組む事が決まりました。演奏会の概要が決まりましたのでその次は会場の確保です。小編成のオケが演奏可能なステージの広さと客席数が500名位のホールを探す事になり、2年前(1992年)に開館したばかりの浜離宮朝日ホールが年末に空いている日がある事がわかり12月26日を確保する事が出来ました。

 

 会場と日程が決まった事で具体的な内容の検討が始まり、演奏会のメインプロはモーツアルトの交響曲の中で最も重厚な第41番「ジュピター」交響曲に決まりました。実は指揮デビューする時のソリストは芸大時代のピアノ科の同級生で私の伴奏者を務めてくれていた「植田克己」君でと以前から考えていましたので、早速連絡したところ快く引き受けてくれました。彼はロン・ティボー国際音楽コンクールで第2位大賞を受賞しその後芸大の教授となり、現在は芸大の音楽学部長をしています。

お互いに家族ぐるみの付き合いをする程の大親友でもありました。彼はBeethoven をライフワークに取り組んでいたのですがモーツアルトの協奏曲第20番を選びました。そうなると必然的に冒頭に演奏する曲もモーツアルトでという事になり、弦楽器の各首席にソロがある「セレナータ・ノットゥルナ」に決定し、演奏会のタイトルも「佐藤 迪 モーツアルトの夕べ」とする事が決定しました。(当時のチラシ参照)

 

 次にオケのメンバーの検討に入り、最も重要なコンサートマスターについてはこれまでTPOでも何度かお願いして私が最も信頼できると思っていた大谷康子さんにお願いしてみたところ、スケジュールも大丈夫で快く引き受けて頂きました。彼女は皆さんも良くご存知かと思いますが現在東京交響楽団のソロ・コンサートマスターを務めておられ、ソリストとしても活躍されています。その他のメンバーは基本的にはTPOで何時も演奏してもらっている人を中心に人選しました。

練習会場の手配・楽譜の手配・チラシ&チケットの作成・広報の手配・演奏会案内状の作成と発送等準備しなければならない事が山ほどありましたが、全てが楽しい仕事でした。

 

 10月、友人のサイモン・ラトル(第7回「サイモン・ラトルとの出会い」参照)がロンドン・フィルと来日中で東京の演奏会を聴きに行く事にしていましたので、13日の昭和女子大学人見記念講堂での公演の際に楽屋に会いに行き、今回指揮者デビューする事になった話をするととても喜んでくれました。そして、演奏会のプログラムに一言書いて欲しいと頼むと喜んで推薦文を書いてくれました。(ラトルの自筆推薦文参照)

 

本番が近づきました。練習は24・25日の本番直前2日間のそれぞれ午前午後合わせて5時間です。プロのオケのリハーサルとしてはごく通常の量です。気心が知れたメンバーでしたので順調に進みました。

 

本番当日、ゲネプロ(本番前のステージリハーサルを音楽業界ではこの様に呼びます)で、「ジュピター」の第3楽章メヌエットだけがしっくり行かず何度もやり直す事になり、最後は「本番に掛けましょう」という事になってしまいました。それ以外は殆ど問題もなくゲネプロを終了しました。

 

コンサートは7割くらいの入場者で思った以上に沢山のお客さんに来場いただけたと感じました。

本番の演奏は全員が集中して私としても納得の行く演奏が出来、問題だったメヌエットも私が思う通りの演奏が出来て嬉しいとともにホッとした事を思い出します。

植田君も素晴らしいモーツァルトを弾いてくれました。セレナータ・ノットゥルナの各ソリストは大谷さんを始め生き生きした演奏をして頂きました。全面的に支援して頂いた板橋さんからもお褒めの言葉を頂き、打ち上げパーティーそして二次会と充実した夜を過ごして無事終了しました。

 

 この演奏会を機に指揮者としての道を歩き始めることになりました。打楽器奏者としての仕事は基本的にはしない方針に決めました。ただ、1979年から打楽器メーカー「パール楽器」の顧問をしている事もあり、打楽器の講習会等打楽器の指導については続ける事としました。

 

また、この演奏会を成功させるために、それまで音楽事務所としてTPOのメネージメントや企画・制作が中心であった「東京プロムナード協会」を私佐藤 迪の音楽活動全てを支援する団体として機能が強化され、現在に続いています。

 

 

                                  佐 藤  迪

 

                         第11話  完   次回へ続く