私の人生と音楽

第4回 浪人時代と芸大受験

高校の卒業式を済ませて直ぐに上京し、東京での浪人生活が始まり、小宅先生のお宅でのレッスンも始まりました。レッスン日は日曜日で好きな時間にお宅に伺い、来た者順で見て頂けるというもので、何時も6・7人は先に来ている人がいて順番が来るのを待ちました。その間私より先に先生の門を叩いた人たちのレッスンを見る事になりますが、皆さん大変上手くて凄いレベルと思いました。先生に「3年間は覚悟しなさい!と言われていたので速く先輩達のレベルに追いつく様に頑張ろうと思いました。

 

当初は仙川の叔父の家に下宿、3ヶ月程で初台の木造アパートに移りました。小太鼓とピアノの練習をしなければならないので、六畳の部屋を天井から畳に届く長さの厚地のカーテンで取り囲む様に吊るしご近所の迷惑にならない様にしました。音を出せるのは朝の10時から夕方6時まで、この間にタイコの練習が4時間位、ピアノが3時間位という感じでした。ピアノのレッスンが週に1回、コーリューブンゲンのレッスンも週に1回、日曜の午前中が聴音の教室で午後小宅先生のレッスンへ移動というスケジュールでした。入試で学科(外国語・社会・国語)の試験も有るので高校の時のレベルを保つ為に週に一度東大に入った高校時代の同級生に家庭教師に来てもらいました。  

 

小宅先生のレッスンは思っていたものとは随分違っていました。入試に必要なのは小太鼓の基本奏法と小太鼓のソロの曲ですので最初の2ヶ月くらいは基本的な奏法を週に一つずつ教えて頂きました。一通り基本が終わると小太鼓の練習曲を渡されます。 楽譜には番号が付いていて最初の番号はN0.28、順番にNo.120位まで行くとNo.1に戻ります。必要なテクニックを順次習得して行くという事です。頂いた楽譜を自分で写譜して(当時はコピー機の様な便利なものは無く、写譜をする事で曲を深く読む事が 出来ました)、次のレッスンでお借りした楽譜をお返しし、その曲を叩くと問題が無ければ次の楽譜を頂くというやり方で、最も驚いたのは先生は何も言って下さらないのです、曲が出来ていないと「もう一度」と言われるだけで当然次の楽譜を頂けないのです。後で気が付いたのですがレッスンの順番を待っている間に他の人が受けているレッスンを見て自分で学ぶという事、ま た自分で曲を創り、自分で出来ているかどうかの判断をする力を磨いて行くという事だったと思います。音楽を創る基本的な方 向性を教えて頂いた様に思います。この事は現在の私に取っても今でも生き続けている教えです。レッスンに通って次第に分か ったのですが私より番号が進んでいる人が20人以上いました。

 

次第に他のレッスン生の人たちと友達になりました。その中には私と芸大で同期だった定成庸司(現沖縄県立芸大教授)、 勝俣格(元佼成ウインドOrch.ティンパニスト)杉野森 創(ジャズ・ドラマー)小長谷宗一(作・編曲家となり特に吹奏楽の分野では有名)。私を含めてこの5人は特に親しく何時も一緒にいました。彼等は時々私のアパートに泊まりに来て一緒にタイコの練習をしたりしていました。

 

当時の芸大の入試は一次試験が専攻楽器の実技と適性検査、二次試験が専攻楽器の課題曲と初見試奏、3次試験が副科ピアノ・ソルフェージュ・楽典・学科試験・面接でした。3年計画ですので浪人1年目は一次試験がどんなものかを体験出来れば良い、 2年目には2次試験まで進みたい、そして3年目は三次試験まで進んで出来れば合格という予定でした。  事実最初の芸大受験は見事に一次試験で落ちました、というか小宅先生の元で1年しか勉強していませんのではっきり言って 未だ初心者レベルでしたので当然の事でした。この年の打楽器科の受験者は15名でしたがその内14名が小宅門下、一人だけいた他から受けに来た人は控室で皆が練習を始めたら試験を受けるのを諦めて返ってしまいました。多分レベルの高さに驚いたのだと思います。

 

次の2回目(2浪目)の受験は、その時の練習曲の順番で行くと9番目でしたので一次試験に受かるかどうかギリギリの所で した。この年の受験者は17名、二次試験に残れるのは8人程度でした。しかし運良くその8人に滑り込んで一次試験を通過しま した。取り敢えず予定通りになった訳です。二次試験では課題曲も上手く叩けたと思いましたし初見試奏も間違えないで叩けた様に思いました。二次を通過出来るのは3・4人です。他の人は練習曲が私より進んでいる人ばかりでしたので多分落ちている だろうと思って発表を見に行くと二次通過者の4名の中に私の番号が有り、「えっ!受かっちゃった」という感じでした。三次試験はそれなりに何とか出来たかな!という感じで最終の合格発表を見に行きました。思いがけず2年目で合格出来ました。合格発表の日の夜、母と小宅先生のお宅にお礼に伺いました。先生から「良く頑張った」と誉めて頂きました。私が「正直、二次で 受かるとは思っていませんでした」と話すと「二次試験の課題曲では優劣は殆ど付けられなかった。ただ、初見試奏で間違えず に叩けたのが2名その内の一人が君だった。一箇所だけ間違えたのが2名、結局この4名が三次に残ったんだ」という事でした。 本当に奇跡的に合格出来た様です。

 

後にプロの演奏家として活動する様になって思ったのですが、プロの演奏家は「本番に強い」事が要求されます。その意味では私にその資質が有ったのかもしれません。  実は、この時「一度国に帰って準備をして来ます。4月から宜しくお願いします」と言ってお別れしたのが小宅先生との最期になってしまいました。先生はこの年の入試の芸大の先生方の慰労会で4月4日に熱海の温泉に行かれていて、温泉に入浴中に急逝されてしまわれました。やっと芸大に受かって4月から大学で先生に色々教えを受けるのを楽しみにしていた矢先の事で 「お先真っ暗!!」になりました。                          

 

第4話  完   次回へ続く

 

第6回定期演奏会プログラムより転載 2012.03.05