私の人生と音楽

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の創団

前回で1974年に「東京ユース・シンフォニー・オーケストラ」(略称TYSO)がスコットランド・アバディーンで開催された「第6回国際ユース・オーケストラ・フェスティバル」(略称IFYO)に参加、その演奏会で素晴らしい演奏をした事を書きました。この演奏に参加した者は私も含め生涯忘れられない貴重な体験だったと思います。帰国後もしばしばこの時のメンバーで集まり盛り上がりました。その内に「あのアバディーンの時のメンバーで演奏活動を続けられると良いね!」という話が自然に涌き上がって来ました。その様な中TYSO19759月のベオグラード音楽祭の開幕演奏会への出演の依頼が来ましたがTYSOとしては参加出来ないとの結論になった事を受けて、我々で替わりにこの話を受けようという事でアバディーンの演奏会の指揮者であった「堤俊作」も加わって具体的な話が進み始めました。私は当時全国のプロオーケストラのエキストラとして忙しく活動していましたが、日本のプロオケの現状に色々疑問を感じ始めていた時期でも有りました。アバディーンでの演奏を再現したいという思いも有り、若い力で既存のプロオケのマンネリ化した状況を打ち破る事が出来るのではという思いから一緒に参加する事にしました。TSYOで団員のまとめ役のインスペクターをやっていた事とメンバーの中でプロとしての経験が一番豊富で有った事等も有り、私が運営委員長という事で活動を始める方向で話が纏まって行きました。

 とは言え、アバディーンのメンバー全員が参加出来る訳でもなく、一部のメンバーはヨーロッパの各地に留学として残ったり、音大生では無いメンバーは就職が決まっていたりで、実際には半数くらいのメンバーの参加に止まりました。オケとして活動するにはメンバーが足りないという事も有り、新しく「若い優秀で意欲の有る音大生」等に声を掛けメンバーを募る事になりました。アバディーン・メンバーに推薦してもらったり、噂を聞いて大学までその演奏を聴きに行ったりして参加者を募りました。その中で当時芸大の3年生だった「澤 和彦」(後に和樹)にはコンサートマスター候補として指揮の堤と共に一緒に会いに行き、口説き落としてコンマス就任が決まりました。

 一方ではオケのデビュー演奏会の準備も進め1975年3月日比谷公会堂において設立記念第1回演奏会を開催する事が決まりました。団体名を決めなければならないという事で私の発案で市民(聴衆)の方を向いたオケにしたいという事から「東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団」(略称TCPO)という名称にする事が決まりました。又、当時海外のバレエ団や歌劇場を招聘する事業を展開していた音楽マネージメントの「総合文化社」からTCPOを全面的に支援してもらえる事になり、モスクワ芸術劇場バレエ団の日本全国公演のオーケストラ演奏を担当させてもらえる事や、O.スウィトナー指揮ベルリン国立歌劇場のバンダ演奏も依頼される等多大なチャンスを頂き、プロのオケとしてのスタートを切る目処が立ちました。

 

1975年3月のデビュー演奏会を最初に、その後、香港音楽祭への参加とマカオ公演(指揮:ヘレン・コーク)それに続きベオグラード音楽祭ヘの参加とユーゴスラビア国内の公演(指揮:堤俊作)と海外での演奏が続き、当時26歳の私が最年長という「若いプロのオケ」が誕生し、活動を開始しました。その後も総合文化社とバレエ関係に繋がりが深かった堤俊作の尽力も有り仕事も順調に増えて行きました。その内NHKのクラシック番組「音楽の広場」にも出演する様になり、テレビ朝日の「題名の無い音楽会」ヘの出演も決まる等、日本のバレエ団の公演での演奏を中心にテレビ局の音楽番組、定期演奏会の開始、スクール・コンサート等、次第に活動が広がって行きました。

 

 プロオケの運営の経験が全く無い素人集団で、指揮者の堤と団員ではただ一人プロオケの仕事をしていた私が現場で得た知識を元に手探りの状況で運営し、団員と相談しながら新しい考え方の運営スタイルを模索して行くという形を取りました。赤字を出す訳にはいかず、受けた仕事で入って来た出演料から必要な経費・運営費を差し引き、残りを団員のギャラとして分配するという100%歩合制という苦肉の策を取りました。(聞くところによるとTCPOは現在もほぼ同じスタイルで運営されているそうです)

 その後、順調にプロオケとしての実績を積み重ねて行ったのですが、創団して3年が経ち今後の団の運営方針をしっかり立てようという事で、主だった団員で一泊の合宿会議を持ちました。私は団名に「シティ」としている事や市民の方に向いた活動をという事で「都心でお客さんが聴きに来るのを待つのでは無く、我々オケの方からお客さんが居るところに行って演奏する」という提案をし、特に東京23区から出て、3多摩地区の市部で演奏会を開催するという方針を打ち出しました。手始めに「立川」で定期演奏会を開催する事になり、稲城市に協力してもらいホールを練習場に借りられる事になるなど、少しずつ実現に向けて動き始めました。立川では団員が市内のアマチュアの演奏家の指導に協力するという話等も検討を始めました。

 私の構想は多摩地区の全ての市民会館とタイアップし共催関係となれば演奏会の回数も確保出来て、その上に掛かる経費も必要無くなり、団に取っても経済的にも助かるという事と、何よりもお客さんが居るところに行って演奏するという理想が実現出来るという最高の方向に進めるというつもりでいました。しかしこの方針に思わぬブレーキが掛かってしまいました。それは常任指揮者の堤俊作が反対の態度を取る様になったのです。当時のTCPOの仕事の半分は「堤」が持って来るバレエの仕事でしたので当然発言力が強くなっていました。常任指揮者としては活動のメインは都心で有りたいという事でした。次第に「私」と「堤」の間で意見が合わなくなって行きました。それとは別に団が4年目に入り団の運営も形が整って来た事も有り、私がずーっと運営委員長でいる事は良くないし他の団員にも積極的に運営に参加してもらう様にして行った方が良いと思い、委員長を他の団員に譲る事を考えていた時期でも有りました。結局団員の中でも私の方針を支持する者と堤に付いて行こうとする者に二分される様な状況になってしまいました。最終的には団が分裂しかねない様な状況になり、私の構想は実現には相当な時間と努力が必要であるのに対して取り敢えず団員が生活して行く為と団を維持してく為に堤の関係の仕事は必要であった事を考え、私が身を引くという形にするのがベストと判断してオケを去る決断をしました。

4年間では有りましたがTCPOの立ち上げから運営に携わりオケが独り立ちするまで関わった私にとっては貴重な経験でも有りました。

 

 現在では首都圏の自主運営のオケが自治体とフランチャイズ契約をしているという形は普通になって来ました。(東響=川崎市、新日本フィル=墨田区、日本フィル=杉並区、TCPO=江東区)

私がTCPOでやろうとした事は当時未だ誰も考えていない新しい考え方でした。私の考えた方向で進んでいたら現在のTCPOはどの様なオケになっていただろうと考えると大変残念な気もします。時代を先取りしてしまったのかなと当時を振り返ってしまいます。

 

TCPOを退団し、又フリーの打楽器奏者としての生活に戻りました。丁度その頃私にとって一つの転機になる出来事が起こりました。この件は次回に書きたいと思います。